Rio de Janeiro

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2016年1月25日月曜日

「原爆投下は仕方なかった」は一理あると思う。

ここ数年、太平洋戦争のことについて個人的に色々と調べています。

日本では原爆投下について、アメリカの非人道性が声高に言われ、あれは実験のためにやったのだ、落とす必要は本当はなかった、という論調が一般的です。そして、当のアメリカでは戦争を早く終わらせるために必要であったという教育がなされていることから、余計に日本人としての憤りを増幅させているようです。

私も普通の日本人として、このように思ってきました。
しかし、太平洋戦争のことを知るにつけ、「原爆投下を正当化させるだけのことを日本はやってきた」と思うようになりました。
だからといって、原爆のような兵器を使用したことが許されるとは思いません。しかし、アメリカ側から見れば、「仕方なかった」という物言いが、一定程度妥当であるようにも思えてきます。

その理由は、サイパン陥落以降の日本の戦術変化です。
それまではある程度戦って打つ手が無くなれば、「バンザイ突撃」と言って、銃剣で敵に向かって突撃をしていました。そしてほとんどの場合、米軍の機関銃の前に皆殺しにされました。
それで戦闘は終わっていたのです。

しかし、「絶対国防圏」の要であるサイパン島陥落以降、大本営は戦術を転換し、それまで推奨してきたバンザイ突撃を禁止しました。そして徹底的に持久戦を行い、敵に多大な損害を強いると同時に、「本土決戦」までの時間稼ぎをすることにしたのです。

それ以降の戦場では、文字通り最後の一兵まで抵抗する戦場が次々に生まれ、米軍の被害も非常に増えました。日本軍は望みのない戦いでも降参しないので、戦闘は長期化し、(米軍にとって)戦略的に無意味な殺し合いをずっと続けなくてはならなくなりました。

フィリピン、硫黄島、沖縄、と、そのような戦いを続けてきたのはご存知のとおりです。
サイパン奪還に絡むマリアナ沖海戦と台湾沖航空戦で航空戦力のほとんどを失い、フィリピンの戦い(レイテ沖海戦)では空母とほとんどの戦艦・巡洋艦が壊滅し、文字通り丸裸になっているのに、これ以上戦う姿勢を見せているのは、(日本人よりは)合理的にものを考える欧米人からしたら「狂気」以外の何物でもないでしょう。

そして最後は本土で決戦する構えを見せているのですから、これまで以上の犠牲が生まれることは誰の目にも明らかです。いずれ降伏する、というか、指導者以外の国民が全滅することが明白になっても、戦い続ける姿勢を見せている「狂気の」相手に対して、「通常の」戦闘を続けようと思うのは、妥当な選択なのでしょうか。その時、タイミングよく破滅的な影響を相手に与えられる兵器を手にしたら、使わないという選択を採れるのでしょうか。

冒頭にも述べたように、個人的には原爆の使用は実験的意味がとても強かったと思います。そしてなにより、ソ連に対して戦後優位に立つためという意味が最も大きいでしょう。1945年当時のアメリカは(連合国は)日本を戦争の相手としては眼中にいれておらず、どのように戦争を終わらせ、戦後体制をどのように築くか、そのことにほとんどの意識があったように思います。

既に米ソの対立の中にある世界情勢の中で、運悪く日本が原爆の犠牲になったということだと思います。そして、旧日本帝国陸海軍の戦い方は、これ以上ない非人道的な兵器(原爆)の使用をも正当化させうるほど狂気に満ちていたことも、皮肉にいえば、原爆という兵器をどこかで使いたいと考えているアメリカに味方したでしょう。

原爆の悲惨さやアメリカの非人道性は、考えなければいけない大きなテーマでしょう。しかし、その前に、日本はなぜ原爆投下の事態に陥ったのか、自国の行動を振り返る方が大切だと思います。なぜ真珠湾攻撃に宣戦布告が間に合わなかったのか。サイパンが陥落した段階で降伏しなかったのはなぜか。フィリピンが落ちた段階で降伏しなかったのはなぜか。沖縄が占領された段階で降伏しなかったのはなぜか。ポツダム宣言をすぐに受諾しなかったのはなぜか。

サイパン陥落の段階で降伏していれば、東京大空襲もその後の日本中の年に行われた空襲もなかったのです。ポツダム宣言をあと1週間前に受諾していれば、原爆投下はなかったのです。太平洋戦争の空襲や原爆を振り返って、「戦争は悲惨だ」「戦争はしてはいけない」と語る前に、なぜそのような結末になったのかを今一度考えるべきかと思います。